庄内クリニックブログ Shonai Blog

キスカ島撤退作戦

今朝の通勤途中、ラジオ番組内のニュース読み上げの際に「先日の選挙で改憲勢力が2/3を超えましたが、『世論調査の結果、憲法改正は急がなくて良い』が過半数を超えました。とわざわざニュースで取り上げていました。で、その直後に司会進行役が新聞社の論説解説員に電話をつないでこの世論調査についてコメントさせていました。どこまで必死なの???20年前からネットで正確かつ素早くニュース情報を取れるようになってきてからTVや新聞でニュースを全く見なくなってましたが、ラジオも偏向激しいですね。「急ぐ必要ない」をあたかも「憲法改正には反対」に置き換えてしまっているような解説のしかたは本当に酷いと思いました。

選挙の前にも別の局、別のMCでしたが、安倍晋三元総理暗殺の報を受け「これで自民党は弔い合戦だ、などと言って得票に繋げる言動があるかもしれないが、今回の事件が皆さんの投票行動に影響を与えるようなことがあってはいけません」など、今回の自民党の議席増を見越していた(心配していた?)かのような発言してましたが、どうにかしてもらいたいものです。安倍晋三氏が憎かったのかもしれませんが、なくなった翌日のラジオ放送でアレはないな、と思いました。素直に「ご冥福を・・・」「民主主義への挑戦。許せん」あたりの決まり文句で良いではありませんか。それを中立でなければいけないマスコミが聴衆や視聴者をミスリードしようとする様は気持ちのいいものではありません。さて

 

先月の5日、1942年にミッドウェー海戦の行われた同じ日にアッツ島の戦いについて書きましたが、昨日の記事で旧陸軍の原理主義について書きながら思い出したことがあるので、今日は隣の島キスカ島の撤退作戦について

 

先月のブログのようにアッツ島が米軍の攻撃にさらされている最中に大本営はアッツ島の東にあるキスカ島の放棄とキスカ島守備隊の撤退を決断します。当時キスカ島には6000人弱の人員がいましたが、第1期作戦では15隻の潜水艦を動員して800人の傷病兵の救出に成功します。しかしレーダーを駆使した米国艦船に浮上したところを発見されるなどでかなりの損害が生じてしまいました。

次に大本営は水上艦による救出作戦を決定します。濃霧に乗じてキスカ湾に入港し約5000名の兵員を収容して撤退する作戦です。何度か試みますが途中で霧が晴れてしまい断念。霧が晴れた状態でレーダーを駆使した米軍に見つかれば、航空機からの爆撃をくらい全滅の恐れがあったからです。一度は本格的に撤退します。そして、再度キスカ島へ近づきついに7月29日、濃霧のうちに水上艦10数隻でキスカ湾入港、ボートによるピストン輸送で5000名に垂(なんな)んとする守備隊を分乗させ米軍に見つからず撤退に成功したのでした。実際には米国の潜水艦に近距離で発見されていたのですが、米国艦艇と見間違えるように偽装していたためバレずにすみました。米国海軍がキスカ島包囲網を解いていたほんの数日間にたまたま一致していたのですが、この作戦成功には大きな要因がありました。それは撤収にかける時間短縮のため、第一にピストン輸送に使用したボートを回収しなかったこと、そして第2に陸軍側に武器の海中投棄を求めこれを陸軍守備隊司令官が受け入れたことです。陸軍の兵器とは三八式歩兵銃のことでこの小銃には菊の御紋章がついていたので、これを投棄するということは当時考えられないことだったのです。後日陸軍は海軍に対してこのことについて抗議しています。少し横道ですが戦後グアム島から帰還して横井庄一さんがグアム島でのサバイバル生活で三八式歩兵銃につけた銃剣をスコップにして穴を掘っていた件を理由にルバング島から帰還した小野田寛郎さんから面会を拒否されていた、という話もあるくらいです。一般の徴兵だった横井さんと同じく徴兵されたとは言えその後志願して陸軍予備士官学校、陸軍中野学校を出たエリート(兄二人は東京帝国大学卒で長兄は医学部卒の軍医)で、背景も違うんですけどね。横井さんと小野田さんはまた別の機会に書きますね。

そんなわけで、私の中で「何があっても三八式歩兵銃を捨ててはいけない」という旧陸軍の凝り固まった思想と「たとえ外国に攻められても日本は武器をとって戦ってはいけない」という戦後の日本社会党の非武装中立論が結びついてしまうんです。日本社会党は村山富一さんという首相を出したりもましたが以後縮小し直系では社民党になってます。離脱者の多くは旧民主党系の政党で今も活動しています。森友、加計、桜の会の追求で盛り上がっていたメンバーの中にも多くいました。

そんな戦後の日本社会党みたいに偏執していた旧日本帝国陸軍が三八式歩兵銃の投棄を受け入れるという英断を経て奇跡的に成功した撤退劇だったのです。

さて、日本軍が撤退していたことを知らない米軍は撤退から2週間後に大量の艦砲射撃の後キスカ島へ上陸します。しかし残っていたのは日本の守備隊が残していった少しの武器と4頭のシェパードだけでした。1943年の8月15日、終戦の日のちょうど2年前の出来事でした。あれ?1942年じゃないの?と思った鋭い読者さん、アッツ島の記事にも書きましたが日本軍がアッツ島に上陸してから米軍が現れるまで1年経過していたことを思い出してくださいね。

南方での激戦と違い、アッツ島の戦いとキスカ島の撤退戦についてはこれまで語られる機会も少なかったかと思いますので、このブログで紹介しておきました。