庄内クリニックブログ Shonai Blog

虎ノ門事件

テロリストの名前は伏せておきますけど
父親は立派でした

こんばんは。院長の佐野です

100年前の今日、東京で虎ノ門事件がおきました。これまでにも書いてきた内容も含めて説明しますと

1923年12月27日、この年は9月に関東大震災があり復興のさなかでした。当時大正天皇は体が悪く裕仁親王が摂政に任ぜられ、大日本帝国憲法上の天皇の統治権を総攬してしていました。摂政宮は帝国議会(今でいう国会)の開会式に臨席するために車で議事堂へ向かっていました。車列が虎ノ門に差し掛かった時に摂政の宮を歓迎する群衆の中から男が飛び出して仕込み杖を車窓に押し当て散弾を発砲しました。運転手が機転をきかせてスピードを上げたために2発目が打たれることはありませんでした。摂政宮は無事で、侍従長が軽傷を負いました。

政府高官は「臨席は取り止めましょう」と申し上げましたが、摂政の宮は「いや、構わない」といって、冷静に勅語を代読されたのでした。さらに国会臨席の後、皇族数人とテニスに興じています。裕仁親王殿下23歳の時のことです。

さて、犯人はこの時25歳の共産主義者(Wikipediaでは無政府主義者と記載されています)でしたが、摂政を狙撃すれば民衆に歓呼で迎えてもらえると考えていたようです。「天皇のせいで民衆が苦しい思いをしているのだから、民衆が警官から守ってくれるだろう」なんてことを考えていたようです。豈(あに)図らんや、民衆は犯人に襲いかかり、リンチしようとしたのでした。それを警官がとめたのでした。警官に助けられなかったら裁判も受けることなく憤死していたかもしれません。その裁判ですが、当時の刑法には「天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又ハ皇太孫ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス」とありました。後半をよく読んでいただきたいのですが、危害ヲ加へ又ハ加ヘントシタル者、と書いてあります。つまり未遂に終わったり予備罪でも死刑という大変厳しい規定でした。「大逆罪」という罪状です。

取り調べで検察官は「裁判で反省の弁を述べれば、情状を酌量し判決後に摂政宮の思し召しを以って無期懲役に減刑」を提案し、犯人もこれを受け入れました。豈図らんや、裁判では天皇制反対の大演説をぶったため、この取引きは破棄となり死刑に処されました。

父親の難波作ノ進はなんと衆議院議員でした。直ちに辞表を提出、古来の様式に倣って閉門のうえ蟄居し食事も十分に摂らず衰弱死しました。

他にも書きたい逸話やウンチクは沢山あるのですが、長くなると最後まで読まない読者も何人かいらっしゃるので、最後に一つだけ

 

摂政宮の命を救ったのは、機転を効かせた運転手だとも言えるのですが、なんとこの運転手「車列を乱したかどでクビ」になってしまいました。