安倍さん暗殺の時と違って、近いうちにその日が来るだろうとは思っていたけれど
安倍さんが亡くなった時と同様に泣きました
こんにちは、院長の佐野です
一昨日になりますが、アントニオ猪木氏がなくなりました
戦後のプロレスでは力道山が圧倒的に有名ですが、1980年代にプロレスを見始めた私にとって記憶に残るプロレスラーと言えば、初代タイガーマスクとアントニオ猪木です。以後、テレビ放送だけでは飽き足らず、スポーツ新聞で予習してから「週刊プロレス」「週刊ゴング」(廃刊)、「格闘技通信」を読み込むプロレスオタクが誕生します。
ジャイアント馬場選手も国民的人気を誇っており忘れてはいけません。ジャイアント馬場さんは1999年になくなりますがその2週間前に全日本プロレスの松本興行(当時学生で松本在住でした)を観ました。「馬場選手は体調不良につき・・・」とアナウンスされ出場はしていませんでしたが、駐車場に停めた全日本プロレスのハイエースの中で寝てました。少し前の興行から休場はしていたのですが、松本興行でのパンフレットにはしっかりクレジットされていました。観ておきたかったです。
でも、やっぱり我々の世代はなんと言ってもアントニオ猪木です。平成産まれの人たちは「ビンタの人」「『この道を行けば・・・』の人」そして「1、2、3、ッダー!の人」くらいにしか思われていない可能性がありますので、少し書いておきますね
アントニオ猪木氏は幼少期に横浜からブラジルへ移住し若い時から農場で働いてました。幼少時は運動は苦手だったようですが、大きな体格もあったためか砲丸投げで優勝するなどの記録を残していました。そこへブラジル遠征に来ていた力道山の目にとまり日本でプロレスラーとしてデビューすることになります。力道山の付き人、アメリカ修行時代、新日本プロレス立ち上げ、政治家デビュー、引退、その後と数々の活躍をしてこられました。中でも私が感慨深いのは、戦後の日本をプロレスで沸かした力道山、その付き人をしていたアントニオ猪木がプロレスにストロングスタイルを持ち込み、猪木の付き人をしていた前田日明(あきら)が猪木のスタイルを継承し総合格闘技路線の先鋒を担いで今日の総合格闘技の確立に多大な貢献をして来た、ということです。
そもそもUWF(正しくは「第一次UWF」と書くべきですが)という団体は自身の事業の失敗を新日本プロレスに補填させていた猪木が新日本プロレスに居づらくなったためその受け皿として作り上げられた団体で、前田日明氏も「猪木さんに、『俺も後から行くから。』と言われていた」と告白しています。結局アントニオ猪木がUWFやその後の派生団体に参加することはありませんでしたが、プロレスラーアントニオ猪木がやりたかった路線というのがまさにUWFやその後の流れにあったことは間違いないでしょう。そして、先日も伝説の元ボクシングチャンピオン、フロイド・メイウェザーが日本の総合格闘技選手とエキシビジョンマッチとはいえ対戦したり、数年前にはキックボクサーの那須川天心と対戦してましたが、このような流れを作ったのもアントニオ猪木が源流だと言っても過言ではないでしょう。現役のボクシングヘビー級チャンピオンのモハメド・アリと異種格闘技戦をやってのけたのですから。しかも、モハメド・アリといえば伝説中の伝説のチャンピオン マイク・タイソンですら謙遜ながらも「自分よりも上」という発言をしているくらいのチャンピオンです。「蝶のように舞い、蜂のように刺す」の人でわかるでしょうか?ちなみにアントニオ猪木の入場テーマ曲はモハメド・アリが自身の自伝映画に使われた曲をアレンジして猪木に送ったものです。その他にもタイガー・ジェット・シンの腕折りをはじめ書ききれないほどの伝説があります。
プロレス以外で有名なところでは「日本にタバスコを輸入したのは猪木が最初」という話ではないでしょうか?実は猪木氏のアントン・トレーディングが輸入を始める前に日本には入ってきていたようですが、日本で一般的になったのは70年代にアントン・トレーディングが輸入していた頃のようです。ちょうどピザが広まった頃と一致してそうですね。他にもWikipediaで今日初めて知った伝説もたくさんありましたが、世間で過小評価されているのではないか、と思われることが二つあります
まず、北朝鮮の首都平壌でプロレス興行を実現してしまったことです。1995年の4月なので、北朝鮮による拉致事件が公にはなっていなかったのですが一部週刊誌などでは日本海側は北の工作員が普通にウロウロしててこれまで何人もの日本人が拉致された。と言われていて多くの日本人は「やばい国」という認識は持っていたように思います。少なくとも数々の犯行があきらかになる前のオウム真理教よりはヤバい認識があったように思います。そんな時期でも旧日本社会党系の議員さん達は「そんなことあり得ない」とか言い張ってたんですけどね。更には拉致被害者が書いた手紙がなんとか日本の家族の元に届き、それを北朝鮮にパイプがあるからと相談された当時社会党の議員さん、あろうことか手紙のことを北朝鮮にチクっちゃいました。手紙を書いた拉致被害者の日本人夫婦は2ヶ月後になくなってしまいます。日本社会党を支持してた昭和のインテリ層の人たちは反省してくださいね。
またまた、すっごい脱線してしまいましたが、そんな時代に北朝鮮でプロレス興行やっちゃうところがすごいですよね。結局けしからん国の国威発揚に手を貸してしまうことになるので誰にもできないのですが、それができるのが彼の凄かったところです。それにより北朝鮮と太いパイプができ、政治家としての彼の活動にも大きく影響したことと思います。彼の北朝鮮とのパイプは土井たか子(あ、書いちゃった)の腐ったパイプなんかとは違って本当に有効利用してもらいたかったです。拉致問題担当大臣というポストがありますが、あれは政権がどうであろうと現役議員であろうがなかろうが、猪木氏がずっと務めていればもっといい結果になっていた可能性もあったんじゃないかと思ってしまいます。総理大臣が変わろうが、政権政党が変わろうが同じ人が継続して務めるべきポストじゃないのかな?なんて思ったりもしますが、えらい評論家の人たちは誰もそういうこと言わないんですね。
もう一つ、忘れてはいけないのはイラク戦争の時の人質解放です。イラクのサダム・フセインがクウェートに侵攻して滞在していた外国人をイラクに連れ去ってしまいました。実質のところ人質です。そのうち日本人は41名いました。政府間交渉で解放を要求しますがうまく行きません。それにしびれを切らしたアントニオ猪木氏が被害者家族とともにイラクのバグダッドへ乗り込んで平和の祭典を開催してしまいます。結果日本人を解放させちゃいました。すごいと思いませんか?アントニオ猪木氏逝去の報道で真っ先に紹介するべきことだと思うのですが、マスゴミのバカ達はインテリを自認してるのかプロレスラーや格闘家がインテリを超える偉業を成し遂げてしまうことが許せないのでしょうか。「ビンタ」や「ッダー!」ばかりを放送します。このブログの数少ない皆さんにだけでもどうしてもアントニオ猪木の偉業を伝えておきたくて書きました。こんなに長い記事だと最後まで辿りついてないか。
こんなようなことを『炎のファイター 〜INOKI BOM-BA-YE〜』を聴きながら思い出し、涙にくれるのでした。
独特の言動で面白おかしく伝えられることが多い人ですが、本当に偉大なヒーローでした
アントニオ猪木さんありがとうございました。Bom Ba Ye!