庄内クリニックブログ Shonai Blog

戦争責任!?

評論家の佐野です。昨日のニュースで先帝陛下(昭和天皇のこと)の戦争責任について台風情報の合間に報道されていました。「なんと不敬な」と思いネットニュースで調べてみると。当時の侍従長のメモに陛下が「自分の仕事を楽にして細く長く生きても仕方がない。辛いことをみたりきいたりすることが多くなるばかり。兄弟など近親者の不幸にあい、戦争責任のことをいわれる」と発言していた記載があったということらしい。
これをもってテレビのニュースはさも「昭和天皇がご自身の戦争責任を痛感していた」としていましたが、立派な大学を卒業して新聞社やテレビ局に就職したエリートがこんな報道をしてしまうのがこの国です。この間違いを誰も指摘しない、出来ないのもこの国の大きな問題ですよね。私には先帝陛下は「戦争責任のことを「言われる」のがお辛い」としか読めないんですけど。どうなんですかね。さらに前後の脈絡でいうと、「そんなに長生きしていなくてもいい」というのが趣旨で、「戦争責任を言われるのが辛い」のは修飾部分だと思うのです。それをテレビが「戦争責任を感じていた!」とするのは何か気味が悪いですね。今上天皇の退位が近くなっているのもあるのでしょうか。変な情報を国民にばら撒こうとするのはやめてもらいたいです。
ところで日本史の授業でも習いましたが、天皇が退位をすると上皇になります。上皇が出家をすると法皇になるんですよ。天皇は神道のトップなので出家は出来ないので上皇になってから出家して法皇になりました。豆知識として覚えておいてくださいね。あと、天皇の即位や退位に関しても面白い話がいくつかありますので、機会があればまた書きます。
さて、私はそもそも昭和天皇には戦争責任などあり得ないという意見です。大日本帝国憲法第1条「大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す」、第3条「天皇は神聖にして侵すべからず」この二つの条文は歴史の授業で戦前の日本がいかに民主的でなかったかを教えるのに使われてきましたが、実は全くの逆です。第3条の本当の意味は「天皇に責任を取らせることは出来ない(侵すべからず)のだから、天皇は政治に口出しをしてはいけない」という意味なんですよ。えっ?と思われたかもしれませんがこのまま読み進めてみてください。ヨーロッパの立憲君主国の憲法にはしばしば書かれていた内容で無答責条項とも言われます。当時すでに絶対王政ではありませんでしたから、憲法制定時に参考にしたのは当然ヨーロッパの立憲君主国の憲法です。王政を敷いているけれども、むしろ国の箔付けの為に王を立てているだけ(言い過ぎかな?)というのが立憲君主国です。だからといって憲法に「でもね、王様は政治に口出ししてはいけない」なんて書いてしまったら王様の権威もナニも無くなります。だからそのような条文を付け加えていたのです。
大日本帝国憲法の解釈も少なくとも大正の時にはそのような考え方が一般的になっていました。その時代に天皇になるための教育を受けた昭和天皇もそれを教えられたはずです。天皇は国権発動の最高機関であって、天皇個人は神でも絶対君主でもない。という考え方です。これを天皇機関説と言います。覚えておきましょう。対する概念は天皇主権説です。さらには第55条には、国権の発動に当たっては国務大臣が天皇に助言をし、その責任は国務大臣が取るように書かれていますので、第3条の天皇不可侵、天皇無答責条項はこのように理解することに矛盾はありません。
長くなりましたが、ここまでが前置きです。実際に昭和天皇ご自身も天皇機関説を支持していたと思われる御発言があります。そうは言っても、天皇が政治に口を出してしまったことがあります。長くなるので省きますが、清国が倒れた後に支那には軍閥が複数出現しそのうちの一つ奉天軍は張作霖が率いていました。当初張作霖は日本よりでしたが、そのうちいうことを聞かなくなり、邪魔に思った関東軍は電車に乗った張作霖を爆弾で暗殺してしまいます。張作霖爆殺事件です。当時の田中義一内閣総理大臣は天皇に、これに関わったものに責任を取らせる旨を天皇に上奏しますが、陸軍大臣の妨害にあい責任をとらすことが出来ませんでした。それを上奏したところ天皇は「前と話が違うではないか!」と怒鳴りつけます。そして鈴木貫太郎侍従長に「あいつの話はもう聞きたくない」と話されました。その話を聞いた田中総理は関係者の処分と内閣総辞職を決断します。この出来事以降、昭和天皇はさらに政治に口出しをしなくなりました。数年後の二二六事件の時に、自分を崇めてクーデターを起こした皇道派のの将校たちを叛乱軍として自ら近衛師団を率いて鎮圧に当たる。と言った時は御聖断と言われてますがこの時は緊急事態でした。昭和天皇最後の御聖断は太平洋戦争終結の為のポツダム宣言受け入れの時です。
二二六事件でクーデターを起こした将校たちは天皇機関説に反対し統帥権干犯問題(これはまた書きます)に義憤を感じ天皇主権の国家を作りたくて発起したのに、肝腎の天皇陛下ご自身は天皇機関説でいいじゃないかというお考え方でしたし、天皇の周りを固める国務大臣や侍従長を襲ったので逆にこっぴどく嫌われてしまいました。この時襲われた侍従長は上に書いた田中義一内閣総辞職の時と同じ鈴木貫太郎です。天皇に叛乱の第一報を伝えたのは鈴木侍従長の妻鈴木タカ。彼女は昭和天皇の幼少期の乳母、養育係で昭和天皇は母のように慕ってましたし鈴木侍従長のことも父のように思っていたようです。なんで、そんな人を標的にしたんでしょうかね?天皇と叛乱将校の関係って現代のアイドルとその熱狂的なファンに似てますね。アイドルが大好きで追っかけてるのに、握手会には汚くて臭い格好で現れて唾液や体液のついた手で握手を求めたり。そりゃ、嫌われますよ。握手会を休むアイドルが多いのはそういうことを本当にやらかす連中が少なくないということが垣間見えますね。ちなみに「彼らの国を思う気持ちも汲んでやってください」と叛乱将校たちを擁護する言葉に対しては「其れはただ、私利私欲に出るにあらずと云へるのみ」と返したそうです。つまり、私利私欲によるものではないからと言ってこんなことが許されるものではない。と言い切ったのです。当時35歳の天皇のお言葉です。それまで叛乱将校たちに同情的だった帝国陸軍も天皇のお言葉で鎮圧に踏み切ったということです。
横道にそれ過ぎました。上記のような例外をのぞいて昭和天皇は御前会議でもほとんどお言葉を発しておられないのです。日米開戦を決めた御前会議でも明治天皇の和歌を詠んで、それとなく自分の考えを伝えただけでした。
ここまでで本当に天皇に戦争責任があったと思えますか?
近衛文麿元首相が1945年の早い時期にこの辺で敗戦を受け入れて戦争をやめてはどうかと上奏した時に「今一度敵を叩き優位な条件を引き出す」為にこれを天皇が拒否したことをもって戦争責任を追求する人もいますが、これも違います。政権トップの判断で終戦を決断していたなら天皇は受け入れていたでしょう。当時の近衛文麿は元首相ですから。
あとは皆さんで考えてみてくださいね。インターネットにも新聞、テレビにないような情報が沢山あります。まあ、このブログも含めてちゃんと根拠も調べないで書かれてる情報も沢山ありますけどね。