庄内クリニックブログ Shonai Blog

二月二六日になります

オリンピックが終わると、まだパラリンピックがあるというのにウクライナの地にロシア軍が攻撃を開始しました

プーチン大統領は相当なタカ派ですが、戦争行為も含めてある程度支持されている様です

彼の主張するウクライナへの軍事作戦の大義名分は勉強不足でなかなか理解できませんが、各国の対応を見ていると「容認?」と思ってしまいます。経済制裁を食らうことを覚悟して動き始めたプーチンさんを抑えることが出来るのでしょうか?

 

日本もかつて経済制裁を食らいながらも複数の大国を相手に戦争をしてしまい、後になって「無謀だった」「アメリカの挑発にまんまと乗ってしまった」「自衛の為の戦争で仕方なかった」などと言われてます。

私自身は「大東亜戦争において日本は言われているほど悪者ではなかったが、大陸進出への野心は陸軍を筆頭に抱いており国民もそれに乗っかっていた部分はあるのではないか。」という意見です。なんかどっち付かずのコウモリ野郎の様に思われてしまうかもしれませんが、これが冷静な「歴史認識」というものではないでしょうか?

 

こんにちは、院長の佐野です

日付が変わると2.26事件が起こった日です

簡単に説明すると、1936年の2月26日未明から29日にかけて陸軍の青年将校を中心として約1500人が決起し首相官邸を始め複数の政府中枢機関を占拠してしまったクーデター未遂事件です。日本が大東亜戦争(太平洋戦争ともいう)に突入するきっかけの一つとして欠かせない事変と認識されています。

背景はここに書いてしまうと最後まで読んでもらえなくなるのでしっかり省きますが、陸軍内の皇道派と統制派の対立があったことを覚えておいてください。皇道派とは天皇中心の社会を実現希望。統制派は政治的活動により世の中を改革希望。どちらも方法論は違えど軍国主義をさらに進めようと考える人たちでした。以前も書いたことがあるかと思いますが皮肉にも昭和天皇は「天皇万歳」を連呼する皇道派があまりお好きではなかったようです。アイドルと熱狂的すぎるファンとの関係に似てますよね。

さて、当日未明東京は大雪でした。赤穂浪士の討ち入りの夜も雪であった様で青年将校達はそれを喜んだとのことです。反乱軍は数カ所の拠点を攻撃し、松尾伝蔵陸軍大佐、高橋是清大蔵大臣、斉藤実内大臣、渡辺錠太郎陸軍教育総監、を暗殺します。Wikipediaによると5名の警官もこの時殉職しています。鈴木貫太郎侍従長は襲われ銃弾を打ち込まれましたが、妻のタカさんが夫に覆い被さり命乞いをしたことで止めを刺されることはありませんでした。私が命を狙われた時に妻は覆いかぶさってくれるでしょうか?私は怖くて聞けません。みなさんも聞かない方が良いと思いますよ。そのタカさん独身時代は学習院幼稚園の保母さんをしていましたが、幼少期の昭和天皇の御世話係に抜擢されていた女性です。さらに最初に天皇が事件発生を知ったのはタカさんからの電話でした。試験には出ないけどこういうところも興味を持ってくださいね。戦後になって昭和天皇は「タカは私の母親のようなものだった」と回想しています。そして鈴木貫太郎自身もかなりの人格者であったようで天皇からの信頼も厚く終戦の時、ポツダム宣言受諾に当たって内閣総理大臣に任命されています。誰もそのような時に総理大臣なんて引き受けたくはないので一度は拝辞するのですが天皇に「頼むから引き受けてくれ」と請われ就任したのでした。大日本憲政下で天皇に請われて就任した総理大臣はただ一人です。また、暗殺された松尾伝蔵陸軍大佐は事件当時の総理大臣岡田啓介の妹の夫で首相官邸にいました。岡田を狙って踏み込んできた叛乱軍(天皇が最初にこう呼び始めたらしいです)が女中部屋の押入れに隠れた岡田を見つけられず右往左往しているところ、現れた松尾は誰何 (すいか)され「岡田だ」と名乗り銃殺されました。こうして叛乱軍は岡田首相の暗殺に成功したと思い込み、秘書官達の案で翌27日帰る弔問客達に紛れて岡田首相は脱出に成功しました。

当時の日本は酷い不景気もあり非常に閉塞的で国民も政治と財閥の癒着などに辟易していました。そんな時に満州などへ華々しく展開していく軍に淡い期待を寄せているところもあったようです。我々の受けた教育では軍が先走ったからあの戦争に突入してしまったなど言われていますが、そういう時代背景もあったことは確かだと思います。実際に2.26事件の後に陸軍は激しく暴走してしまったので、軍の専横がいちばんの原因ではありましたけど。軍人や政治家だけでなく国民の多くも叛乱軍に同情的でした。実際に当初はクーデター成功かと思われていました。皇道派の主要人物の真崎甚三郎は殺された渡辺錠太郎陸軍教育総監(統制派)の前任だったのですが統制派によって事件前に更迭されていました。このことも2.26事件の遠因の一つとも言われています。クーデター後に叛乱軍に占拠された陸軍省を訪れ真崎は「お前達の心はよおくわかっとる!」などと宣っていたようです。このまま青年将校たちに担がれて総理大臣にでもなろうとしていたのではないでしょうか。しかし皇道派の頼みとする天皇が断乎として鎮定を主張され時間の経過とともに形勢は不利になって行きます。陸軍大臣川島義之も青年将校たちに告示に行った際「蹶起(けっき)の趣旨に就 (つい)ては天聴に達せられあり」などと曖昧な表現に終始します。「天聴に達する」とは天皇のお耳に届く、という意味なのですが、当初は「達せられたり」であったのを「あり」に変えてしまってます。断定の助動詞「たり」だと天皇も理解を示したという意味合いが強くなってしまうので、あとで「話が違う」とならないようにやや曖昧に「達せられあり」に変更したのでしょう。

このように天皇の態度が断乎鎮定であったために、形勢は反乱軍に不利になって行きます。決定的なのが「朕自ら近衛師団を率ゐて此れが鎮定に当たらん」と御聖断されたことです。わかりやすく言い換えると「政府も軍も何もしないというのなら、天皇である私が自ら親衛隊を指揮して鎮圧する」とまでおっしゃいました。天皇にここまで言わせてしまうと軍上層部や政府高官も鎮圧に動かざるを得ません。さらに天皇は本庄繁侍従武官長がのちに「彼らのしたことは許せないにしても、その国を思う心情をお汲み取りください」と上奏した際には「それはただ私利私欲に出(いづ)るにあらずと云へるのみ」とお答えになったのです。わかりやすく言うと「私利私欲から出た行動ではないからといって、何でも許されるわけがないだろう!」(かなり意訳)という感じでしょうか。2.26事件に際し天皇の発せられたこの二つのお言葉は後世に語り継がなければいけません。

さて、少し脱線しましたが当時の背景も考えると国中がクーデターに同情的であったのに天皇は冷静な判断ができました。大日本憲政下でも天皇は決して絶対君主などではなくむしろみなさんの思っているよりもむしろ肩身の狭い存在でした。天皇機関説と言って、天皇は神などではなく単なる国権発動の最高機関である、という学説がありどうやら天皇自身もこれを支持していたようです。最高機関と言っても以前のブログに書いた通り憲法ではそのように定められていますが御聖断を求められた時以外は政府や国会や元老の決めた通りに政治を行っていただけなのです。今の天皇とあまり変わらなかった、というと語弊があるでしょうか。ちなみに天皇機関説の対立概念が天皇主権説です。そのようなお立場の天皇が皇道派の掲げる天皇中心の国家運営(天皇主権説)に乗らなかったのは、青年将校達が襲った人たちがそ天皇の忠実なる臣下で松尾の様な人格者や天皇が個人的にも慕う鈴木夫妻であったりしたことが大きいとは思いますが、皇道派の人達の主張が天皇ご本人には気持ち悪かったのもあるのではないでしょうか。実際に皇道派の中には宮城 (きゅうじょう)に押し入り天皇に銃を突きつけてクーデターを成功させてしまえばいいなどと考えていた者もいた様です。数年に一度熱狂的なファンがアイドルを襲ってしまう事件がありますが同様の気持ち悪さを感じていたのかもしれません。

 

さて、天皇の厳しい態度もあり事件の首謀者達は弁護士なしで裁判にかけられ早期に死刑となります。これは同様に有名な5.15事件が軍内部で処罰されたため甘い処分であったのと比べて厳しいものでした。そもそも5.15事件の処分が甘かったことが2.26事件を引き起こした遠因でもあるとも言われています。これにより陸軍内の皇道派は粛清され統制派が幅を効かせる様になるのですが、結局戦争へ突き進んで行きます。最初に書いた通り皇道派も統制派も軍国主義でしたから。統制派の方が理性的で知能も優れていた人が多かった様なのですが、それでも戦争へと突っ走ってしまいました。事件の翌年1937年には軍部大臣現役武官制が復活してしまいます。これは事件の黒幕が入閣するのを防ぐ為というのが建前でしたが、結局は軍の言うことを聞かせるのが目的だったのではないでしょうか。話が飛躍してわからないですよね?軍部大臣現役武官制については別の機会に書きますね。「軍部大臣武官制」との区別もあるので長くなりますから。かといってそんなこと書いて読んでくれる人がいるのか心配ですが。

ともかく「2.26事件が戦争への行程を加速させた」というのはある意味正しく、ある意味的外れなのかもしれません。

 

大国ロシアが領土的野心を持っていることは明らかだと思いますが、大規模な戦争にならないでもらいたいと祈る一方。野心的武力行使をとめることが出来るのはさらに大きな武力しかないというのもあります。経済制裁だけでプーチンさんを止めることが出来るのでしょうか。