庄内クリニックブログ Shonai Blog

三月十一日

「ああ、やってもうた!言い訳のしようもない。そのまま親に言うしかないか!?」

 

さて、今年もこの日になりました。この日を迎えるとあの時の気持ちや出来事が心に蘇ります。

こんにちは、院長の佐野です。このブログに書こうか迷っていましたが、思い切って書いてみますね。

 

2011年3月11日の夜は名古屋市中村区の救急病院で救急当直医をやっていました。今年と同じ金曜日でした。

毎晩5台以上は交通事故などで救急車が入ってきて、そのうちの2−3人は入院になります。歩きで救急受診する人はその数倍いらっしゃいました。しかし、その夜は救急車も歩きで受診する人もゼロでした。皆さんテレビにかじりついて交通事故も起こらないし、お酒も飲まないから急性アルコール中毒にもならないし。少しの体調不良くらいで受診するどころではなかったのかもしれません。震災当日は名古屋でもそれほどのインパクトがありました。

私自身には直接の被害はありませんでしたが、東京近辺の身内や知り合いにお米や足りないものを送ったりしていたのを覚えています。しかし、津波で家や仕事や家族を失ってしまった人達は直接の知り合いにはいなかったので時間の経過で影響も薄くなっていったのを覚えています。

他に、これほどのインパクトのあった出来事でいえば、1995年の阪神淡路大震災と一連のオウム真理教事件、一昨年から続いている新型コロナ感染症によるいわゆる「コロナ禍」でしょうか。コロナは今も継続中で、うんざりしながらも今後の社会や生活の変化への恐怖はまだまだひしひしと感じています。高校生の時には同級生に金持ちの息子も多くいたのですが、バブル崩壊の影響で彼らの親が経済的に困窮してしまうのを目の当たりにしていたのも私個人としては強く記憶に残っています。あと、海外でいうと9.11の米国同時多発テロも衝撃的でした。

 

私には3月11日というと上に挙げた例に負けないくらい衝撃的な出来事がありました。1994年の3月11日です。

 

私の通っていた高校は私立のいわゆる受験校でしたので最低でも入学前の学力に見合った大学に進学するというのが当たり前の風潮でした。しかし、担任教諭との面談では「おめぇ、まだそんなとこ狙(ねろ)うとんか。無理じゃけぇ、考え(を)改めぇや(岡山弁)。」 ハッパをかけられてるんだな、なんて間抜けにも考えていました。そもそも中学1年の途中から勉強を全くやらなくなっていたので、「少し高望みしても本番前にチョロっとやれば学力もすぐに上がって、受かる」という甘い認識だったのです。しかし、何年も勉強せずに過ごしているとそのチョロさえもいざ直前になっても全くやる気にならなかったのだからダメ具合はお墨付きだったようです。「たくさん受ければどれか受かる」と私立大学も理系を中心に10校ほど、国公立も前期日程、後期日程、C日程の3つ願書を出してました。しかし、担任に勧められて仕方なく受験した1校以外ことごとく不合格。そりゃそうです、チョロっとやれば受かるかもしれない感じで受験したのに、チョロさえやっていなかったのですから。このブログ、娘には絶対に読まれなくないですね。こんなの無理。

で、最後の砦の千葉大学工学部後期日程。これは確実に受かる予定でした。当時は2次試験は面接と小論文だけで大学入試センター試験の点数からするといけると思っていたからです。この年の国立大学入試後期日程は3月12日か13日あるいは両日というかんじでした。で、前日の11日「小論文対策くらいは調べておくか」と本屋さんで立ち読みして帰宅し「明日は何時のバスと電車で千葉大学まで行こうかな。」と受験票を取り出した直後に血の気が引きました。

ところで、当時は実家が千葉県柏市にありましたので前泊は不要でした。学校は岡山市にある私立校で、中学3年間と高校1年までは寮生活。高校2年からはアパート生活をさせてもらってました。「まわりの真面目な生徒に悪影響じゃけぇ。」と、途中で寮を追い出されたんですけどね。この放蕩具合ますます娘には読まれたくないですね。

血の気が引いた理由ですが、なんと千葉大学の工学部は後期日程が11日だったのです。つまり、受験票で日時を確認した時には後期日程試験は終了してました。この時点で浪人確定です。「やべえ!受験日間違えた!!!」当初はまだこんな感じのノリでした。当時の私を殴りたいです。親「岡山のおじいちゃんに電話しなさい。」岡山の母方の祖父母には妹が産まれる前後に預けられていたのもあって随分目をかけてもらっていました。ちょっとお勉強ができそうだとわかるとことあるごとに「医者か弁護士になれ」が祖父の口癖でした。反抗期でもないですが、「はい、わかりました。医者か弁護士を目指します」となることはなく中学入学以降はずっと自動車整備の関係に就職したいと思ってました。祖父に町内の板金屋さんに連れて行ってもらっては自動車整備や板金・塗装作業を見させてもらってました。そんな私を心配して板金屋のオヤジさんや親戚の叔父さんにまで頼んで、「理系なら医者になれ」と長時間説得させてきたりしたような人だったのです。受験に失敗したことを告げると、翌日祖父が倒れて救急車で運ばれた、と連絡がきました。岡山の心臓で有名な病院へ転送され千葉県から駆けつけた私も術前の説明を執刀医から聞きました。で、手術当日ストレッチャーで運ばれていく祖父が「これ(受験失敗のこと)は、やっぱり医者になれぇゆうことじゃあ。わかっとるの?(岡山弁)」「うん、わかった。」これが医者になる決心をした瞬間でした。ペースメーカーの手術でしたので大手術ではなかったのですが、ミスで受験失敗した直後の18歳の少年には十分なシーンでした。認めざるを得ませんでした、自分自身の若さ故の過ちというものを(この言い回し、わからない人ごめんなさい。長いので説明しません)。

で、柏の自宅に帰って正座して父親に「というわけで医者を目指します。1年浪人させてください」と頭を下げました。父親はまるで興味なさそうに「予備校行くなりなんなり好きにすればよろし。予備校通うなら自分で調べて来い」と。後日やはり正座で「代々木ゼミナール柏校なら国公立医学部コースに入れそうです。」「で、いくら要るんや」「1年間の授業料で〇〇万円ほど、あと夏期講習なんかがあるけど、その時の状況で受講する必要が出るかもしれません。」更に後日「お金おろしてきたぞ、自分で払ってこい」と渡された80万円近くの札束が受験に失敗し祖父を病院送りにしたばかりの18歳の少年にはずっしり分厚かったです。父はそれまで一度も「勉強しろ」とか「もっと頑張れ」を言ったことがありませんでした。小学生の頃に塾を数ヶ月サボることが2−3回あったのですがその度に数万円持ってきて「これ捨ててこい、お前がやらかしたのはそういうことや。」とにらみつけられたのが怖かったくらいで。祖父が十分に口うるさかったのもあったからでしょうが、何も言わない男でした。塾に通わせてるのも、私立の中高一貫校に通わせてるのも「お前が望んだからや。」が父の口癖でした。ちなみに塾に通い始めたのは、字が汚く間違いも多くて先に進ませてくれなかった公文式をやめるための交換条件のつもりでした。その公文式も自分より計算が遅いくせに公文式で高校数学にまで進んでることを自慢してくる同級生の鼻を明かしてやりたいだけで始めました。みんなと違う私立の中高に入学したのも小学校5年生の時にオシッコをもらしてしまったのが原因ですが。これは6年生を送り出す卒業式の練習で毎日のようにトイレ中座してたら教師から「今日は絶対にトイレに行かせない。」と脅されてたのを真に受けちゃったんです。この体験は当時の自分にとっては人生終わったくらいに思える出来事で、「みんなと違う学校に行きたくなった。」というなんとも不純な動機になったのでした。

と言うわけで、3月11日と言う日は自分が受験日を間違えると言う大失態をやらかした日で、心臓ペースメーカー手術前の祖父に言われたことや、予備校授業料を現金払いに行かせてくれた父のことを思い出す日になってます。自分の進路を大きく変える決断のきっかけになった、ちょっと塩っぱいでは済まされないくらい重い重い記憶です。

 

ちなみに、大学の4つ下の学年に高校の後輩が同じテニス部に入ったのですが、私の受験日を忘れていたエピソードは少なくとも彼の学年まではしっかり語り継がれていたようです。