安倍元総理暗殺直後から騒がれている旧統一教会ですが、一応キリスト教の一派ということになっています
教祖の文鮮明は嫁が来そうにない韓国の農村へ「日本はかつて朝鮮人に酷いことをしたのだから、現代の日本人が朝鮮人に贖罪するのは当然のことである」だとか言いくるめて合同結婚式を利用して日本の若い女性を大量に送り込むことに成功しています。広告塔の芸能人は韓国の農村などではなく日本人のエリートと結婚していましたけどね。他にも「日本の金は韓国の金だ」「俺の一言で日本から金を引っ張れる」などの発言をしていたことはテレビ番組でも取り上げられていました。でも、この旧統一教会、キリスト教の一派を主張してますが、バチカンやプロテスタント系のトップはどう思っているんでしょうか。キリスト教の教義と全く関係のない主張を持っていますが、韓国発のキリスト教系の新興宗教はかなり多いらしく日本にもたくさん入って来ているようです。
私も幼稚園から小学校までは日曜日にはカトリック教会に礼拝に行ってましたので、キリスト教を名乗る旧統一教会にはちょっと興味がありました。令和になって再び旧統一教会が脚光を浴びてますのでキリスト教について書いてみようと思います。
まずはキリスト教側に立って日本のキリスト教徒の受難を細川ガラシャ夫人に絡めて紹介してみたいと思います。
「ガラシャ夫人」と呼ばれ多くの日本人が知っている細川ガラシャですが、父親が誰だかご存知でしょうか?なんと明智光秀です。その明智光秀は妻木広忠という武将の娘 煕子(ひろこ)と婚約します。しかし婚姻前に煕子は天然痘にかかってしまい顔が醜くなってしまいました。当時は天然痘が大流行しており、天然痘にかかった女をブス、かからなかった女を美人と言っていたりもしたようですから、酷い時代です。言い方がきつすぎましたかね?ともかく天然痘は「器量定め」と呼ばれていたようです。さて、将来有望な明智光秀との婚姻を逃すのが惜しかったのか妻木広忠は煕子の妹を本人と偽って嫁入りさせました。これを見破った明智光秀は妹を実家へ返し「武士に二言なし」で煕子に嫁入りさせました。そして産まれたのが玉子、のちの細川ガラシャです。玉子は天然痘にかかることもなく有名な美人に育ちます。そして明智光秀の盟友細川幽斎の息子細川忠興と結婚します。その後光秀は1582年に謀反。信長を討ってしまいます。この時光秀は細川幽斎と忠興に味方につくよう要請しましたが怖気付いた親子は秀吉側についてしまいます。謀反人の娘である妻を細川忠興は一時は田舎に幽閉しますが、この間に他の女に子供を産ませてしまいます。戦国武将なら通常のことだったと思うのですが、父を裏切ったことと他の女に子供を産ませたことに幻滅し玉子はキリスト教に改宗します。その洗礼名が「ガラシャ」でした。洗礼をした宣教師がローマへ「これほど聡明な女性をみたことがない」という報告した書物が残っています。
細川ガラシャだけで長くなりそうですが、このシリーズ続きますので細川ガラシャはこの記事で書ききりますね
本能寺の変の数年後秀吉は伴天連(バテレン)追放令を出してキリスト教弾圧の色が濃くなっていきますが、細川忠興は戦では有能で秀吉のお気に入りであったため当初ガラシャがキリスト教信者であってもお咎めはありませんでした。後日書くことになると思いますが、どうも秀吉は個人のキリスト教信仰よりも布教する側への不信感があったようです。しかし忠興は秀吉に気を使ってガラシャに信仰を捨てるように迫ります。このことが最後まで夫婦のわだかまりになりました。同時に、有名な美人のガラシャのことを忠興はたいそう心配してました。
豈(あに)図(はか)らんや、忠興出征中に秀吉からガラシャに挨拶に来るように命じられます。ガラシャは茶室に通され二人きりになります。天下人と有名な美人が茶室で二人きりということはそういうことなんですが、そこは聡明なガラシャ夫人。畳に手をついて深くお辞儀をしますが、その時ガラシャ夫人の襟元から懐刀がポトリと落ち、それを拾い上げ天下人に向かって「失礼つかまりました」と言ってのけたのです。それを見て秀吉は震え上がり何もできませんでした。のちに家臣に「女であんなに怖い思いをしたことはない」と言って聞かせたとのことです。
その後秀吉に呼び出された武将の妻が(有名な話ですが、秀吉は家臣の妻に手を出すことが好きだったようです)、真似をして懐刀を落とすということがあったようでしたが、その武将は領地を召し上げられてしまいました。
秀吉の没後、関ヶ原の戦いの直前、石田三成は徳川につき江戸に参集した武将の妻子を人質に取ることを思い立ちます。手始めに細川屋敷を包囲しますが「自分が人質に取られては、夫が思う存分戦えない」と案じたガラシャ夫人はなんと家臣に自分の胸を槍で突かせて壮絶な最後を遂げます。カトリック教では自殺が禁止されているからですが、このことで三成は東軍の武将の家族を人質に取ることを諦めます。これも東軍勝利の一因となったと分析する人もいます。
ガラシャ夫人の没後ですが1637年に有名な島原の乱が起こり、息子の細川忠利は鎮圧の中心にいました。この反乱でのキリスト教徒虐殺については長くなるので省きますが、忠利は多くの虐殺の首謀者ということになります。ガラシャ夫人が生きていたら卒倒していたことでしょう。天草四郎を討ち取ったのも忠利の家臣だったと言います。
ちなみに、ですが。島原の乱の実態は農民一揆です。一揆軍にキリシタンも多くいましたが武器を持って戦ったので殉教者に数えられていません。豆知識です。江戸時代初期に激しく弾圧を行っていた徳川幕府ですが、当初は磔刑などで次々に殉教させていました。しかし殉教は信徒に憧れを与えたり信仰の対象となったり生き残った信徒の信仰をさらに厚くしてしまう可能性があったため徐々に殉教から改宗の強制へと方針が変わっていきます。その際に拷問が行われますが「えっ!?日本人がここまでやっちゃうの」という陰湿で酷い手法が取られます。あまりここに書きたくないのですが、火あぶりの刑ではなく火あぶりの拷問でわざとゆるく柱に縛り付けておいて逃げられるようにします。殉教するにはそれでも縛られたまま踏みとどまらなくてはいけません。で、逃げたら殉教できず棄教を迫られます。断るとおそらく同じことを繰り返しされたのではないでしょうか。拷問の末に棄教させる際に「南無阿弥陀仏」を唱えさせたり。外国人宣教師を棄教させた(酷いですよね。国外追放でいいのに。ま、追放しても戻って来る人がかなり多かったみたいです)際には、日本名を強制し日本人の妻を無理やり娶らせ、他のキリシタンに棄教を勧める仕事を与えたり、そのような部署で通訳をさせたり、死後も戒名を与えて墓石に刻ませたり。日本人のやる拷問て陰湿ですよね。ところで、先の大戦中日本人がやったとされる拷問も酷いものですが、キリシタン弾圧の時の拷問とは全く異質です。私は言い返してやりたいです。「それ、お前のとこのミンジョクがやるやつやろ。」
細川護熙さんという総理大臣がいましたが、細川家の末裔です。ガラシャ夫人の血は入っていないようですが、忠興の側室から連なる子孫ということです。